SmileSmilePROJECTと私

2020.05.28 お知らせ

 

SmileSmilePROJECTの岸川です。

今回は私が何故このプロジェクトをしようと思ったのかを書かせてもらいたいと思います。

(長いです)

4年前私はミャンマーワッチェ慈善病院にいました。

そこで国際長期看護研修生として活動していました。

吉岡ミッション(手術期間)の最終日くらいだったと思います。

私は右膝に腫瘍疑いがある2歳6カ月の女の子を担当しました。

問診時、バイタルサインは安定しており女の子はキョロキョロして

お母さんに抱っこされていたことを覚えています。

今回は生検のみということで手術室へ。

私は直接介助で、機械出しをしていました。

生検は基本的に、組織の検査のため腫瘍を全部とるわけではなく、

腫瘍の一部を取るための手術になります。

執刀医が少しだけ丁寧に小切開をしただけです。ほんの少しです。

そこからあふれるばかりの血の混じった腫瘍がどんどん溢れてきました。

私は見たことない位の衝動でそこからあまり記憶がありません。

途中からマジマ(手術室看護師)へ変わり、

私は溢れる腫瘍を受けた膿盆をひたすら交換して、排液量のカウントや

吸引の手伝いをしていたような気がします。

途中で待機していた吉岡先生も出てきたことも覚えています。

 

生検だから輸血も準備していませんでした。できる限りの輸液投与で

間接介助(外回り看護師)は循環動態を保っていました。

ドレーン(創部から廃液を流すチューブ)を入れて、バンテージ(包帯)を巻き、

なんとかバイタルサインも安定したところで手術は終わりました。

吉岡先生はその子のほっぺたを人差し指と親指でつまむようにして、眺め

「(あなたも)大変な世の中に生まれてきたのう。」と言ってから

去っていったのを覚えています。

その時は私もまだまだ意味がわかってませんでした。

そこから後の手術を終え、私は夜勤のため21時ごろに

病棟での勤務になりました。その日は大雨でした。雷も鳴って

病院のカギ閉めのおっちゃんは早々と門を閉めようとしたため、

準夜勤の看護師と全体の患者さんの状態の変化等の変わりがないかの申し送りを受けて

門を閉める間際ギリギリに帰っていきました。

夜勤の看護師は私と研修生の大姶良さんとミャンマー人スタッフもう1名でした。

あの手術を終えた女の子はナースステーションから一番近いベットでした。

お母さんが横でずっと心配そうに見ています。

勤務が始まってから何か変な匂いがする、とはずっと思っていました。

早速彼女の元にいくと、2歳児の脈拍よりはやや頻拍ではありましたが

血圧も安定していました。

ずっとキョロキョロとしていて、泣くこともなくぱちぱちと

目を開けていました。

右足をみると、どう考えても左足よりも色が悪く、そして冷感もありました。

血の混じった臭い匂いもします。おそらく出血がずっと続いていると考えました。

 

夜間の急変も考え、当直のミャンマー人医師(Dr.アンパイモン)に連絡しました。

バンテージによる圧迫かもしれないから、一回外してみてはと

言われました。

一方病棟看護師のマツザにも状況を連絡しており、

バンテージをはずすと出血が抑えられなくなり出血性ショックになるから

やめたほうがいいと。

それでも現場の判断にまかすとマツザに言われました。

そして、この大雨で誰もスタッフは応援にいくことは難しいということもあり

私たちで対応するしかないと覚悟しました。

もう一人の大姶良さんは、その女の子以外にも患者さんは70名近くいており

その患者さんのフォローも必要だからとあのフロアを一生懸命周り

点滴や抗生剤等対応をしてくれたことを覚えています。

優先順位がわかっていなかった私に、冷静さを教えてくれた人でした。

私ほとんど彼女につきっきり。

足の血流改善のためバンテージを外すかどうか。

外した後の出血した場合の対応は?ここで急変したらどうなる???

と考えていました。30分くらいは悩んでしまったと思います。

 

もう限界と思った時に、Dr.アンパイモンがずぶ濡れで雨の中ミャンマー人Dr2名を引き連れて

病棟に来てくれました。その時に停電。そんなことある?と思いながら

応援があることを踏まえて、皆で病棟で懐中電灯を照らしバンテージを外すことにしました。

本当に怖かったです。どうなるかな、、と思ったけど、

若干の下肢の血流改善、循環動態は安定され、ガーゼ交換とバンテージをまき直しをして朝まで持ちこらえました。今でもDr.アンパイモンに感謝しています。

朝になったことも覚えてませんでした。体はハイプレッシャーに押しつぶされ、記憶が飛び飛びでした。

心配した他の研修生は早めに彼女の元へきてくれていました。

マツザにももうし送り、お尻をたたかれ「後は大丈夫」と言われたことを覚えています。

本当彼女は夜よく頑張ったなと思いました。

彼女の朝のヘモグロビン値は2まで低下し、輸血が開始されました。

その後彼女は転院し、下肢切除をしましたが元々病状進行が早く

2週間後後に亡くなったと連絡がきました。

「ああ、あれは何だったんだ?」と

私の中で疑問でした。そこに悲しさとか悔しさとかでなく「無」のような

空っぽな感じがずっと続いていました。

 

そこから、研修は終わりに向かい

研修最終の吉岡ミッションでそのことを話すと、色々な要因と背景を踏まえて話ながら

「その子のこと忘れないことやな。」と言われました。

そこからも色々と考えていましたが、

その時に思うのは、当たり前だとは思うけど

彼女にしか目がいっていなかった。そこしか一生懸命にしかなれなかった自分です。

あの夜彼女の母親はどんな思いでいたのか、どんな不安を、

どんな言葉かけができたのか、肩をたたいたり、さすることすらもできなかった。

今でもそれは後悔をしています。

仕方ないと言われることもありましたが、気付くことすらも

できなかった自分がやっぱり悔しいままでした。

 

元々SmileSmilePROJECTがあるのは知っていました。

その時に、今は春菜先生が一人で調整しているという話を聞き、

もしかしたらここなら 何かできることがあるのかもしれない

そう思ったことが参加するきっかけでした。

そこから、彼女の話をしたり、

腫瘍の写真を見れるようになるまで2年くらいかかりました。

 

SmileSmilePROJECTで出会うこどもたちには

「自分のベストを尽くそう」と心から思っていました。

 

体調の変化を見ることから、

急変時に自分が何を準備して、どう動くか

シュミレーションを頭の中で何度も何度も行いました。

 

そして、私自身が把握していることはもちろん、

主治医、家族、宿泊先のホテル、テーマパーク、ボランティアへ

その子にとって必要だと思う情報をまとめ、全体共有することでした。

一番重要で、とても大切なことでした。

 

また、そうすることで、その子が楽しめるように、

旅行に少しでも家族が不安をなくすために皆で支えているように思えました。

 

だから、付き添っている時は

最悪の状況を考えながらも、

子ども・家族には最高の旅行にできるように

考えながら動けるようにしていました。

こどもが無理をさせない程度に楽しむ方法を一緒に考えていくのは

ケースバイケースで本当に難しかったですが、

本人の意思を尊重できるように関わりました。

それが家族の願いであることが多かったからです。

 

そして、家族だけの時間を丁寧に大切に扱う。

私の場合、最初は家族と移動等もしますが

できるだけ家族で過ごせるようにそーーーとフェードアウトをするのが得意でした。

特に私は、家族が歩いている後ろ姿を見ることが好きでした。

ご家族から、一緒にあれ乗りましょう!と言ってアトラクション等にも

乗ったのもまたいい思い出です。

 

医療者ができることは、医療だけではない。病院だけでもない。

こどもにとっては「楽しい」と思ってもらえることも大事でした。

 

キリンが好きなこどもには、キリンになって動物園で待っていたり、

体力が持たないからホテルの部屋で過ごすこどもが食べたいチキンを買ってきたり、

きょうだいと一緒に遊んだり、ご両親とたわいのない会話をしたり写真を撮ったり。

家族の希望で、時には看護師と名乗らず友人として付き添ったりしたこともありました。

何でもいいんです。みんなが楽しめれれば。と思い、

できることはなんでもやろうと思ってひとつひとつを進めてきました。

 

私自身が不安がないと言えば嘘になります。

旅行直前は、緊張して食事をしても味がしないとか、逆に食べ過ぎてしまったりとか

水分とってなかったりとかもありました。

時には心停止したときのことまでシュミレーションをしなければならなく、

考えるだけでも喉の違和感があったことを覚えています。

 

それでも旅行が無事に終わった時の安堵感や、家族との思い出は

それ以上の価値を与えてくれて、私のなかで鮮やかに残っています。

緊張と弛緩は必然的に現れました。

 

良かれと思ったことがうまくいかないことも沢山ありました。

スムーズにできたことなんてないかもしれません。

こけながら、進んでいたと思います。

 

小児がんの治療は日本では約8割は治ると言われていますが、

逆に言うと2割は助からない子もいて、

小児血液腫瘍科の先生方は、その2割も救えるように日々治療にあたられています。

私はこどもたちについて先生、看護師、CLS、HPS、ソーシャルワーカーと話していて、本気で情熱を持って医療に向かっていている姿を何度も拝見しました。

そのうえで、SmileSmilePROJECTへ依頼をしてくれた責任感をとても感じていました。

 

緩和ケアの中では有名ですが、トータルペインという考え方があります。

痛みには4つあって、身体的な痛み、精神的な痛み、社会的な痛み

霊的な痛み。霊的というと神秘さも感じますが、スピリチュアルペインといいます。

「何故自分は病気になったのか」「自分が生まれてきた意味はあるのか」

つらさを抱えている人が「意味」を求めて模索する未知の旅とも言われています。

こどもは表現を言葉でなく、表情や態度で伝えてくることもあります。

そのつらさを横で見る親もまたスピリチュアルペインは感じています。

 

自分の子どもが治療のために、必死で頑張っている姿を見て

その子に何ができるだろうか?と親は思うでしょう。

それは、おうちにいる時間を楽しく過ごすことかもしれない、

友達と過ごすことかもしれないどこかに行くことかもしれない、

その子の願いを叶えてやりたいと思うのは親の願いでもあるのです。

それにほんの少しお手伝いをさせてもらっている。そんな感覚です。

 

外で医療者ができることなんて限られてますから、

私たちができることはほとんどない、けども

「居てもらうだけでいいんです。」と言われることが多く、

多くのご家族は私たちを旅行の「お守り」として信頼してくれていました。

 

そのスピリチュアルペインには私たちの力は届いているんじゃないかと

、旅行を終えたご家族の声を聞くと感じることができました。

 

「本当に今でもあの時の風景が鮮明に残っている。一生忘れないと思う。」

それは私も一緒です。医療者として最高の価値だと思います。

 

私は日本の小児がんのこどもたちには200名ほど関わらせてもらいました。

みんな本当に楽しそうに旅行やイベントを楽しんでいました。

そして、みんな家族が幸せそうに見えました。

 

体調がすぐれないときがあっても、

一瞬だけ目を光らせる瞬間があったり、

やりたいことを叶えられた姿を見たときは、

本人の喜びとともに家族やきょうだいも喜んでいます。

 

また、それを見た私たちも嬉しい気持ちになり。

その一瞬を感じられることは大きな喜びでした。

これは、ここじゃないと見れなかっただろうな、これ見たの

私や。。と一瞬一瞬が本当にそのときにしかないものだと実感していました。

 

その家族の一生の思い出に

関わらせてもらったことは私も一生忘れないでしょう。

お母さんになっても、おばあちゃんになっても伝え続けられます。

 

SmileSmilePROJECT・国際長期研修を含め5年経過して今になります。

 

小児がんのこどもをはじめ、

「きょうだいや家族も大切にしてもらえたと思ってもらうこと大事だ」

という原点は、このミャンマーでの経験が生かされていると

確実に言うことができます。

 

ミャンマーの彼女には「少しできたよ。」と今なら伝えられるのかなあ。

とか思いながら書きました。

 

「伝える」ことができてよかったなあと思うこの時間に感謝しています。

今まで考える時間もなかったので、このように文章にすることも

初めてでした。

 

少しの休憩とコーヒーで充電し、

ちょとずつ進んでいきたいなと思います。

この活動は多くの人に知って、実際に経験をしてほしい思いがあります。

だから引き継いで行くことも大事だと思っています。

私の次の目標は「伝えていくこと」だと思います。

どう伝えるか?またヒントがあれば教えてくださいね!

今後もSmileSmilePROJECTの活動と発展を願っています。

 

          SmileSmilePROJECT 岸川 真弓

 

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